なぜ我々はフェミニストではないのか
人種主義、ナショナリズム、あるいは労働組合主義と同じく、フェミニズムもまた、抑圧に抗し人間的解放をめざす闘い――その一環としての家父長制との闘いを含めて――を一連の改革へと還元するイデオロギーであり、そのために、それは回収のための強力な武器、すなわち反革命の武器となる。
それは、プロレタリアートを、互いに対立する主体――あるいは、せいぜい並置されるだけの主体――へと断片化することによって生じるのであり、そうした主体は、それぞれ自らの部分的利益を満たす改革の獲得を目指すことしかできない。つまり、共産主義を肯定するなかで自らを形成する社会的力としての労働者階級は、否定され、分断され、無力化されてしまう。こうしてフェミニズムは、資本に奉仕して我々の人間性を否定する力として、社会民主主義の一翼を担うのである。
もう少し詳しく説明しよう。
社会民主主義とフェミニズム
フェミニズム批判を始める前に、ここで、我々の立場が社会民主主義(古典的およびレーニン主義的)の労働者主義的立場とどのように異なるのかを説明しておきたい。社会民主主義は、その基本原則ゆえに、家父長制との闘いを、国家権力の掌握をめざす労働者の闘争に対して二次的なものとして捉えざるをえない。それは、女性の問題を賃金労働者としての女性の問題へと還元し、そのことによって事実上これを否定するか、あるいはそれを並行した自律的な闘争、すなわち自分たちの闘争とは別のものとして構想することによってである。
実際、フェミニズム運動と、社会民主主義が旗印として掲げる「マルクス主義」との間の数々の衝突の原因は、我々の考察の枠組みとはほとんど関係がない。これらの衝突は、資本主義、革命、階級に関する社会民主主義的な理解に基づいている。この理解の下では、家父長制との闘いは、どのように言い繕われようとも、生産手段を掌握するための労働者運動の主要な闘いに従属する、ただの付属物にすぎない。これに対して、家父長制との闘いはしばしば、個人、賃金、民主主義、国家といった資本主義的搾取から生まれた諸カテゴリーの温存、そしてそれらを女性にも男性にも、またその「性的指向」による区別なく平等に適用することの擁護へと向かうのである。
要約すると、社会民主主義は資本主義を、労働者からの剰余価値の搾取によって特徴づけられるものと理解する。したがって、国家・技術・価値は中立的な手段とみなされ、これらは知性をもって用いられさえすれば――しかもその知性は政治組織に内在する属性とされるのだが――、労働を――存在論的に肯定的なものとみなされた労働を――ブルジョワジーの手から、またブルジョワジーが労働者から剰余価値を奪い取ることを可能にしている特定の法的所有関係、すなわち生産手段の私的所有から解放する役割を果たすと考えられる。このように革命は、力関係が労働者階級に有利になる蜂起の瞬間として捉えられ、労働者階級は、党をその代表としてブルジョワジーに対抗しつつ国家権力を掌握し、生産手段の所有者となって、剰余価値をすべての人に分配することになる。
したがって、社会民主主義にとって革命の問題とは、管理の問題である。すなわち、国家と生産手段を掌握するために労働者階級をいかに組織化するか、その後それらをいかに管理するか、そしてレーニン主義の一部においては、そこから「革命国家」を逸脱させたり「変質」させたりするような官僚制が生まれるのをいかに防ぐか、という問題である。
この考え方では、階級は、あらかじめ与えられた社会学的なものとして、ただ生産において――とりわけ価値が生み出される場において――一定の役割を占めるというだけで存在するとみなされる歴史的主体である。プロレタリアートは、資本に対抗するものとして(しかも資本のためのものとして)労働を中心に据える観点、したがって価値の生産という観点から構想され、主張される。このように考えるなら、性別分業において生産の領域を割り当てられていた男性が、再生産の領域に従事していた女性に対して、長らく中心的主体として重視されてきたのも当然である。少なくとも、女性たちがれっきとした賃金奴隷として工場に入るまでは。
労働者階級とブルジョアジーという二人のボクサーのあいだのこの闘いにおいて、肝心なのは、どちらがより多くの打撃を与え、どちらがロープ際に追いつめられているかということだ。したがって、いわゆる「階級—フェミニズム」と呼ばれるものにとっては、この二つの語の結合そのものが、絶えずつきまとう痛ましい矛盾となっている。すなわち、家父長制を攻撃しようとするなら、それは社会関係の抜本的変革を必要とするが――これは、後述するように、価値を廃絶しなければ不可能である――、にもかかわらず、関係ではなく「物」――具体的には「物」どうしの力関係――から出発する前提を用いている。資本主義とは、我々から「物=剰余価値」を奪うことであり、革命とは、「物=生産手段」を掌握してそれを取り戻し、「物=国家」によってその帰属を保証することである。これらすべては、あらかじめ構成された二つの「物=主体」(労働者階級とブルジョアジー)の闘争によって可能になるものとされ、その過程において、一方の主体は、その代表である「物=党」(形式的組織)が蜂起の過程をいかに効率的に指揮するかによって勝利するのである。
このため、少なくとも社会民主主義が考えるかぎりでは、家父長制との闘いは、主要な革命的課題の外部に置かれることになる。したがって、もっとも急進的なフェミニズムでは、日常生活をめぐる改良主義に陥り、そこでは社会関係の変革とは、我々を原子化し、日々あらゆる共同体の可能性を破壊し、あらゆる生の形態を価値生産に従属させるシステムを破壊することとは何の関係もなく、むしろ、遠い革命を待ちながら――あるいはそれを待つことすらなく――、主意主義的に自分たち自身やその身近な関係性を変えようとする道徳的態度の問題となる。あるいは、もっと効果的であろうとするなら、つまりより実利的なフェミニズムは、資本主義社会のなかで女性を男性と同等のものとして承認させるための闘争へと向かうだろう。つまり、賃金奴隷としての平等(賃金格差に反対)、資本の女性官僚としての平等(企業におけるガラスの天井)、あるいは、再生産の空間(家事とケアの分担)と生産の空間(労働条件の平等)とのあいだの分裂を当然のものとして受け入れる、原子化された個人としての平等である。しかし、しばしばこの二つは同時に現れ、どちらも、家父長制的であれ資本主義的であれ、あらゆる抑圧に対する闘いのなかで表現されていたラディカルさの追求を、最終的には破壊してしまう。[1] いずれにせよ、家父長制と闘う人々と、これまで「共産主義」と呼ばれてきたものとのあいだの相違は、現実の運動としての共産主義そのものよりも、社会民主主義の内部における闘争とその反革命的な力に、より深く関わっている。
この限界を乗り越え、家父長制との闘いと資本主義との闘いとのあいだの矛盾を埋める唯一の方法は、次の二つのことを理解することである。第一に、資本主義とは、資本と労働の矛盾によって構造化された抽象的な社会関係であり、それによって、以前からある抑圧の形態は、資本主義みずからの姿に似せて変容させられる。第二に、共産主義とは、この関係様式を破壊することによって人間共同体へと向かう階級の現実の運動であり、それは人類という種のあらゆる分断を廃止し、新たな社会的存在様式、すなわち人間共同体を構成することを意味する。
資本主義の矛盾に囚われたフェミニズム
中世の末期、黒死病の惨禍と、それに続く反封建的解放運動の影響もあって、死を平等化の力とする文学的トポスがヨーロッパ全土に急速に広まった。その後、16世紀、そしてとりわけ17世紀は、平等化の力がもはや死ではなく、ドン・ディネーロ(「Mr.マネー」というような、貨幣を擬人化した皮肉な表現)――当時のヨーロッパにおける価値法則の一般化――であることを見出すことになる。ドン・ディネーロは、あらゆる社会秩序を破壊し、それを自らとその自己価値増殖過程に従属させるのである。
この平等化する力は、社会秩序を攪乱し、それを資本の共同体にいっそうよく適合させようとするものであり、これまでの抑圧構造に、矛盾した仕方で、しかし鋭く作用し、それらを価値増殖過程に適合させることで維持する。この平等化とは一体何なのか。存在するすべてのものが、一つの実在的抽象(価値)の拡大再生産に包摂される傾向をもつ社会形成が生まれるとき、すなわち、すべてが「生産し、さらにもっと生産する」という単一の論理に従属するとき、自然と人間――それが男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、同性愛者であれ異性愛者であれ――は、この過程に奉仕するための道具となる。このように、資本主義は当初、賃労働を通じて生産と再生産における生の統一を断ち切り、両領域を性別に応じて配分し、女性を再生産の領域に閉じ込め、理性—感情、精神—身体、公—私といった男—女二項の属性を強化した。だがその後、19世紀、そしてとりわけ20世紀初頭になると、長い世界戦争が男性を殺戮のための道具とし、女性を労働力として広範に用いざるをえなくなったとき、我々は両性の平等を求める経済的・政治的要求の運動を目の当たりにすることになる。なぜなら、価値を生み出す道具としての両者の平等は、すでに実現しつつあったからである。
マルクスは『資本論』において、資本主義はその固有の論理によって、自らの再生産に対する自然的・生物学的制約を取り除こうとする傾向があると説明している。しかし、今日我々が経験している生態系の崩壊が示すように、これらの制約は消滅するわけではなく、価値増殖過程と絶えず衝突する。同様に、労働力――すなわちプロレタリアート――という尺度のもとでの平準化の傾向は、フェミニズムの要求が資本主義社会のなかで場所を得るための基盤を築く一方で、出産や授乳という生物学的事実、そして価値が包摂し尽くすことのできない生命再生産のための最低限の社会的条件[2]は、女性に対する家父長制的抑圧の不断の再生産をもたらす。
このように、我々は現在、モノジェンダー的なパターンに接近しつつあると言いうる状況にある。なぜなら、商品が(ほとんど)全面的に支配することによって、プロレタリアであるという条件が男女の差異よりも前面に出る傾向を示し、伝統的に両性に帰せられてきた表象や実践に変化を生じさせているからである[3]。しかし、この傾向と並んで、ケアの国際的連鎖という現象も存在する。すなわち、西洋の女性たちは、「自由な」賃金労働者として自己を肯定することによって、階級的な自己理解を後退させる一方で、彼女たちに割り当てられていた再生産的機能は、移民女性や、より低い社会階層に属する他のプロレタリア女性たちによって、賃金労働の形で――清掃労働者、看護師、高齢者介護補助者、住み込み家事労働者、代理母などとして――担われることになる。あるいは、ケアの領域ではすべてを賃労働に包摂することができず、また一部のフェミニストが望むように価値が再生産の諸課題を完全に吸収することもできないため、彼女たちは二重の労働負担という引き裂かれた状態に苦しむことになる。すなわち、同時にプロレタリアでありケア労働者でもあり、価値の平準化作用によっては労働力であり、生命を生み出す能力という生物学的事実によっては女性でもある、という状態である。
ここで述べた矛盾の中に、フェミニズムは閉じ込められている。もしフェミニズムが自己を超えていかないなら、資本による男女間の搾取の平等を要求するだけでなく、おそらくは、いまだ死にきらない家父長制のもとで社会の再生産がなんとか遂行されるよう、女性による女性の搾取を要求することにさえなるだろう。もちろん、「階級—フェミニズム」が望むように、資本主義との闘いとは別個の自律的な闘いとしてフェミニズムを捉えることは、結局のところ、フェミニズムを再び自己へと立ち返らせ、自らの内に閉じこもらせ、つねに革命という観念の付け足しにしてしまう。そして、その革命観は、家父長制との闘いを統合していない以上、決して共産主義革命にはなりえない。
イデオロギーとしてのフェミニズム
考察のこの段階で、家父長制との闘いは、フェミニズムというイデオロギーにおけるその社会民主主義的で回収的な表現へと還元することはできない、という点をあらためて指摘しておく必要がある。即時的闘争と部分的闘争の違いは、実際上まさにそこにある。すなわち、回収されうる性質――そして回収へと向かう傾向――にあるのである。
即時的闘争は、システムに対する全面的な否定として明示的に提示されるわけではないが、不可分の全体性、すなわち我々の人間性という全体性から出発している。そこにあるのは、このシステム――日々我々を非人間化するシステム――に抗して、人間として自らを主張しなおすという全面的な必要であり、言い換えれば、その諸効果に抗して自らを肯定することによって、システム全体をもっとも深いところで否定することなのである。このように、資本に対する闘いは、価値を生産し、それをさらに拡大再生産し続けるための道具へと変えられてしまうことへの抵抗から生まれる。家父長制とそれを支える基本的構造(家族、母性、ロマンティック・ラブ)に対する闘いは、女性がケアや愛情を生み出す道具とされること、つまり、ケアや愛情が、引き裂かれた傷つきやすい他者――恋人であれ、子どもであれ、祖父母であれ――のもとに蓄積されていく、そのような構造への抵抗から生まれる。これら二つの抵抗は、ただ一つのもの、すなわち我々の人間性の擁護から出発している。自己活動のダイナミクスによって、それらが一般化し、集団的なものとなっていくにつれて、即時的闘争は、当面の利害と歴史的利害との同一性を表面へと押し上げ、明示していくのである。
闘争が一般化できない場合、あるいはその一般化に向けて断固として取り組まれない場合には、別の事態が生じる。そこでは、フェミニズム・イデオロギーが全面的に作用する。それは、女性における当面の利害と歴史的利害とを切り離す言説と実践を通じてである。女性の問題を別個のものとして理解することによって、フェミニズムは女性という存在を断片化し、女性であることはプロレタリアであることとは別のものであり、そのようなものとして扱われねばならないと定める。共通の基盤はなく、共通の闘争もなく、あったとしてもせいぜい並行的な共同闘争があるだけであり、共通の目標も存在しない。部分的闘争として、フェミニズムは、我々の疎外の原因の一つを、他の原因とは別個で自律したものとして考え、それをめぐって行動する必要性を主張する。これは単なる分析的思考の手法ではなく、我々の人間性を保持するための全体的な闘争を、それぞれ別々の方向性と目標をもつ部分的闘争へと変えることを手段であると同時に目的とする、一つの思考と行動の様式なのである。家父長制に対する即時的闘争がフェミニズム・イデオロギーのうちに表現され、それを超えていくことができず、男女を問わず等しく搾取されることを擁護するところにその限界を見出すとき、我々は、それらの闘争が部分的で、回収され、縮減された闘争になったと言わなければならない。すなわち、社会民主主義の回収運動がその役割を果たし終え、階級の自己活動のあらゆる高まりを空洞化して、それを資本にとって受け入れ可能な具体的要求へと変えてしまったのである。したがって、冒頭で述べたように、フェミニズムは反革命的な力として社会民主主義の一部をなしている。
一方で、フェミニズムの部分的性格ゆえに、フェミニズムは資本主義システムにおける家父長制的抑圧の根源を理解することができない。賃金労働の成立、そしてそれに伴う自己運動する価値としての資本の成立は、人間の活動における生産的活動と再生産的活動との分裂を意味する。家父長制は、初期資本主義において性別分業が再編されるための基盤を与え、女性を再生産の領域、すなわち私的空間に閉じ込める一方で、あらゆる束縛からも、あらゆる生計手段からも自由な男性を、価値生産という公的空間へと投げ込んだのである。
この分離がもたらす悲惨な結果を理解した1960年代の第二波フェミニズムは、主意主義的に、公的領域と私的領域を混ぜ合わせようとした。すなわち、「個人的なことは政治的なことである」というわけだ。しかし、その原因を理解しなかったために、分離を否定するのではなく、分離を出発点として両者を混ぜ合わせようとした。なぜなら、そのためにはフェミニズムという部分的イデオロギーを脱して、賃労働と価値のさまざまな現れに対して闘わなければならなかったからである。ところが実際には、最悪の意味でしか私的なものの政治化は実現されなかった。すなわち、もともと公的領域を支配している価値の論理を情動の領域へ持ち込むことが、家父長制的抑圧への解決として打ち立てられたのである。まさにこの時期から、感情や情愛的関係が収益性の観点から考えられるようになり、それまで「女性的」とみなされていたもの、つまり感情の表現とそれについての省察を、政治的・経済的領域へ本格的に巻き込もうとする言説が現れた。自己啓発が、自己自身を感情まで含めて管理すべき対象とみなすイデオロギーとして一般化し、精神分析が普及し、人事部門では心理学が優勢となり、その結果として企業領域では心理的管理が進んだ、等々である。[4] 同様に、資本主義が、共有資源の囲い込みを通じて、生活から切り離された経済領域を生み出し、そこから女性を排除して家庭に閉じ込めたことを理解していたフェデリチのようなフェミニストたちも、結局のところ、再生産労働を公的生活に決定的に参入させるために、ケアの賃金化を求めることにとどまった。[5] 要するに、生産と再生産の分離は、いわばフェミニズムを通じて再生産されたのである。
この点において、実際には、第一波フェミニズム(19世紀から20世紀初頭)と第二波フェミニズムとの間に、それほど大きな違いはない。生産と再生産の分離を問題にしなかったために、第一波が女性の生産領域への参入を男性と対等なものとして認めさせることに注力した一方で、第二波はその限界を認識し、再生産の領域を生産の領域に直接持ち込もうと試みた――ケアの賃金化、私的生活の政治化(政治を形作る価値の論理のもとで)、など――。あるいは、少なくとも、両領域の分離そのものを決して問うことなく、両領域が等しく重要であることを主張しようとしたのである。
一方で、フェミニズムが出発点とする分離はこれだけではないし、フェミニズムが資本のカテゴリーを再生産する場面もこれだけではないだろう。例として、フェミニズムの家族に対する闘いをとってみよう。確かに、家族――そしてそれを基礎づける愛と母性のロマンティックな観念――は、家父長制的抑圧の基本的構造である。しかし、フェミニズムはこれに対して、女性—個人の主張――そこから、とりわけその深い主意主義が生まれるのだが――以外の道を見出せず、せいぜい、抽象的な「ソロリティ(姉妹愛)」という名の傘の下で、他の女性たちとの同盟にとどまる。この「ソロリティ」は、フランス革命以降の「フラテルニテ(兄弟愛)」と同じく、抽象的かつブルジョア的な意味合いを帯びている。これは偶然ではない。我々が志向しうる唯一の解放的共同体は、現実の、不可分な人間共同体だからである。家父長制に対抗する女性たちの共同体は、それが部分的な闘争、したがって女性だけの闘争にとどまる限り、はかなく不安定であるか、あるいは単なるアイデンティティの主張として、端的に虚構的なものである。
プロレタリアートの分裂や偽りの共同体の形成[6]に加え、フェミニズム・イデオロギーのアイデンティティ主義は、家父長制が男性と女性の関係以外の関係のなかでも再生産されるといった根本的な事柄を見落としている。たとえば、同性間の愛情的・性的関係においても、マチスモ的な内容が再生産されるのを見ることになるだろう。同時に、家父長制的抑圧は、男性から女性へと生じる必要すらなく、それがケアされる側からケアする側へと生じるだけで十分である。子どもと母親、あるいは娘と父母のあいだにおけるケアの非対称性は、まさに家父長制的ではないだろうか。今日、家族構造の変化に伴って、たとえば片親家庭であるからといって、その家族がそれだけ家父長制的でなくなるとは言えない。同時に、このアイデンティティ主義は、資本が我々の生活を包摂し、その結果として生じる原子化が、いかにして恋愛関係――異性愛であれ同性愛であれ――の内部でより大きな暴力を生み出しうるかを考えようとする際に、我々の目を曇らせてしまう。なぜなら、それは我々の依存を高め、それゆえに、ますます不安定で敵対的になっていく世界のなかで、いくらかの安心を与えてくれる親密な関係を失うことへの恐れを増大させるからである。
階級を女性と男性へと分裂させ、さらに女性たち自身の内部でも、プロレタリアとしての女性と家父長制によって抑圧された女性とに分裂させることによって、フェミニズムは、階級の統一的な力を解体する。ここでいう階級とは、人間共同体への闘争の中で形成されるプログラム的な力、すなわち共産主義として理解された階級のことである。プロレタリアートの分裂と断片化は、階級に対置されたアイデンティティの擁護へと向かう。しかし、先に説明したように、そのようなアイデンティティは、国家や人種と同じく、資本の共同体とその諸カテゴリー(個人、賃金、国家、民主主義)を通じて一定の客観的基盤を獲得するよう編成された、虚構の共同体にほかならない。
実際、アイデンティティに固執する発想、すなわちアイデンティティ主義と民主主義は、フェミニズム・イデオロギーの成り立ちそのものをなしている。その民主主義的性格は、部分的な闘争にとどまるかぎり、男性と女性の平等を、賃金奴隷としての立場と、その裏返しである市民としての立場の両面において主張せざるをえないという点に、はっきりと表れている。これは、不平等のなかでの平等を擁護するものであり、歴史を通じて、闘いを資本の体制へと回収する巨大な力をもってきた、まさにあの民主主義的神秘化そのものである。そしてそれは、我々の抑圧の背景――いかに民主的に運営されていようとも、あらゆるものとあらゆる人が価値の論理に貫かれた生産の要求に従属させられているという事実――を隠蔽し続けている。
共産主義革命
共産主義革命は別物である。それは管理の問題ではない。価値や技術を(中立的なものとして)用いることによって剰余価値を終わらせることでもない。それは、社会経済的カテゴリー、すなわち資本が与えるカテゴリーによって規定されたボクサーどうしの闘いでもない。共産主義革命とは、我々が社会的に関係しあう仕方の根本的変化であり、この資本主義社会を否定し、同時に自らを階級としても否定する。それは、人間性のために闘う労働者が自らを階級として形成し、そのように形成された階級を通じて、我々の社会的かつ「個人的」[7]な存在様式そのものが根本的に変わることによって実現されるのである。この過程で経験されるのは、価値とその諸形態――貨幣、国家、民族、商品、賃金労働――として現れる資本の抽象的カテゴリーの破壊である。そしてそれは、ある同志[8]が若きマルクスの語を取り戻して Gemeinwesen、すなわち人間共同体と呼ぶものを実践することによって行われる。Gemeinwesen とは、個人性が共同性によって否定されるのではなく、その能動的な一部をなすような存在様式である。そこでは、人間は共同存在のあり方を構成する要素であると同時に、それによって構成される存在でもある。そこではあらゆる分断が克服され、歴史のなかで人類という種を生み出した本源的な共同性が回復される。ここに、家父長制との闘いの位置がある。
では、共産主義の闘争、すなわち人間共同体への運動を、我々はどのように理解すればよいのか。資本主義は社会関係の異様な形態――抽象的で盲目的ではあるが、それでもなお社会的な形態――であることを我々は知っている。だからこそ、資本主義とその担い手に対する決定的な闘争が、社会関係の根本的変革を必要とすることを理解している。それは、即時的闘争が一般化し、当面の利益と歴史的利益の不可分性が明確になるなかで、持たざる者が自らの解放を自らの手で実現するときに生じる。この変革は、蜂起の過程において直ちに、階級と人間共同体のあらゆる分断形態――それがジェンダーであれ、国家であれ、民族であれ、エスニシティであれ――を終わらせるものでなければならない。そこには猶予があってはならず、段階主義に口実を与えてもならない。革命が何世代にもわたる過程でありうるとしても、それは決して停止してはならないからである。この過程において、生物学的または文化的特殊性ゆえに階級社会の構造的支配を受けてきた人間集団は、能動的な役割を担わなければならない。彼らの参加は葛藤を伴い、革命の過程とつねに調和するものでもないだろう。だが結局のところ、葛藤を通じてのみ革命は前進する。彼らが媒介なしに革命過程に直接参加すること自体が、人類という種の上に君臨する価値の支配と闘う可能性の基盤であり、同時にその可能性を開くものでもある。こうした媒介なき行動だけが、この世界とその日常的な非人間化を終わらせることができるのだ。
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[1] どちらのケースにも自分は当てはまらないのだと主張し、むしろ、フェミニズムの二つの実践――日常生活における改革主義と経済的・政治的改革主義――の双方の擁護は、「過渡的措置」(何への過渡なのか?)を用いることによって女性を動員し、したがって急進化し、歴史的主体たる労働者階級の中へ包摂するためにこそ正当化されるのだと言う者に対しては、われわれが今後執筆するアクティヴィズムに関する論考、ならびに、この問題に何らかの形で触れている既存のいくつかの論考――たとえば『ポデモス――ポスト・モダン・スターリニズムにおける浮遊するシニフィアンに関する若干のノート』や『彼らが(破壊的で)あったからこそ、われわれはある――われわれの存在の過去』――を参照するよう勧める。
[2] 参照:ロズヴィータ・ショルツ『商品生産的家父長制――資本主義とジェンダー関係に関するテーゼ』
[3] この傾向は――もちろん、68年から77年にかけての闘争の波の敗北と、その結果として多くの革命家がプロレタリアート理論を放棄したことをはじめとする他の要因とあいまって――、ジェンダー差異を主意主義的に廃絶することを掲げるクィア理論が現在隆盛している背景にあることは、ほぼ間違いない。そのためクィア理論は、ジェンダー――そして、ベアトリス・プレシアドのような最も極端な場合には、生物学的性そのもの、すなわちその生物学的基盤までも――を、必要であれば自然を無視し、技術に委ねることによって歪めるべきだと主張する。そしておそらく、それが資本に身を委ねることを意味するとは気づかないままに。
[4] 参照:エヴァ・イロウズ『冷たい親密性』
[5] この論理展開は、今日、女性解放のメカニズムとして自発的な売春のような反動的なものを擁護することを可能にしている。我々はブルジョア民主主義的な意味での廃止論者ではない。書類を持たない移民に居住許可を与えることに反対しないのと同様に、売春の合法化にも反対しないし、労働運動の初期に、労働組合や政党の合法化が集会の権利によって擁護され、それによって(民主的な)資本共同体への統合が促進されたとしても、それに反対しなかっただろう。我々は単に、それを共産主義プログラムの一部として掲げるのは異常だと考えている。賃金労働という、生そのものの普遍的売春を終わらせたい者は、明らかに、女陰(あるいは尻)の売買を擁護しないだろう。しかし、個人の自由、性的保守主義に対する(個人の)エンパワーメントという議論のもとで、フェミニズムの一部はそれを擁護している。それに反対する側は、実にばかげた一線を引くにとどまる。すなわち、我々の腕、知性、創造性、あるいは愛情の売買には賛成するが、我々の性器の売買には絶対に反対する、というのだ。
[6] これの明確な例が、2017年3月8日の「国際女性ストライキ」への呼びかけ――本稿執筆時点において――であり、もしこれが、労働組合や一部の活動家グループによる活動家的で脱動員的な呼びかけの域を超えるなら、階級の普遍化する力に対して、限定されたアイデンティティ共同体が覆いかぶさることによって、我々の階級にきわめて否定的な影響を及ぼすことになるだろう。単なる活動家的な問題にとどまる限り、そこには活動主義の反革命的内容しかない。
[7] 便宜上、「個人」という用語を使用する。実際には、「個人」というカテゴリーは、マルクスが言うように具体的抽象であり、日々我々に作用しているがゆえに非常に現実的な、社会的に構成されたものであるが、歴史を超越するものではなく、むしろ共産主義革命とともに廃止される。しかし、他者から分離したカテゴリーとしての個人(我々が繰り返し主張するように、資本主義の誕生とともにそのように構成され、資本主義とともに消滅するカテゴリー)の廃止は、共同性(抽象的で、したがって疎外的な共同体)が人格の特殊性に優越することを意味するのではなく、むしろ、人間存在のあり方をその個体性と社会性において歴史的かつ破滅的に分離してきたもの、すなわち種の統一性を否定してきたその分離そのものを否定することを意味する。
[8] ジャック・カマット。本サイトでは、彼のテキストをいくつか翻訳している。
